2017年10月1日日曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー、内容紹介

第6回N.T. ライト・セミナーの輪郭がほぼ決りましたので少し詳しい案内をさせていただきます。

 日時: 2017年10月23日(月)13時~16時
 場所: お茶の水クリスチャンセンター・416号室(40名収容)
 参加費: 一人1000円

今回は共同研究としました。

1コリント15章17節、特に「今なお罪の中にある」を考察する小論文を募集しました。

三人の方から小論文が送られてきました。(紹介は↓)

残念ながらそのうち二人の当日出席が叶わないので、パネル・ディスカッションを用いて「福音、復活」のテーマを掘り下げることにしました。

パネリスト: 高橋秀典(立川福音自由教会牧師)
        岩本遠億(キリストの平和教会牧師)

岩本氏は第5回セミナーに初めて参加されました。牧師であると同時に、大学で言語学を講じる専門家です。

それで、15章17節もその連なりにある、パウロが15章の議論で繰り返し用いる「条件文(if clause)、もし~なら」について言語学の観点から発表もしていただくことにしました。

それで大概以下のように進めていきたいと思っています。

第1部


《発表》 岩本遠億
  「第一コリント15章17節の条件文解釈の可能性」
  問い:代表的な日本語訳の聖書が取っている論理的解釈(前提→帰結)だけが可能な解釈なのか?
新改訳、口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳等、それぞれの訳文がどのように訳されているのか比較検討し、17節の「可能な解釈」を提案します。

この「第1部」では他にホスト側三人が書いた文章を検討します。
 (1)上沼昌雄・・・「信仰と罪の問題」について、コリント信者と私たちという時を隔てたあいだながら、テキストとの往還を通して見定めようとする文章。
 (2)川向肇「アップデートされ続けてきた復活」
 福音メッセージの内容が伝達されることに伴う変容を「現地化」と云う観点から考察したものです。
 「復活」は仏教の「極楽」との接触でどうなったか。現代ポピュラーに使われるようになった「天国」はどんな現地化バージョン・アップデートと言えるか・・・といったことを扱っている文章。
 (3)小嶋崇・・・「今なお罪の中にある」を、復活がなければ贖罪(「私たちの罪のために死なれた」)は不成立になるのだろうか、という問いに置き換えて考察します。復活が忘却される傾向にある福音派の救いの教理について問題提起する文章。


以上四つの文章を、17節に対する「広い文脈」から投ずるサイドライトと見立ててディスカッションします。

休憩

第2部

以下の応募作三つから適宜ポイントを絞ってディスカッションし、その後フロアーとのQ&Aに移ります。

《応募小論文》 「今もなお罪の中にいる」とは何か

 (1)小山英児(栄シャローム福音教会牧師)・・・「今も捕囚状態にある」という視点から考察
 N.T.ライトの『革命がはじまった日(The Day the revolution began)』(2016年)を参照しながらの考察です。
 (2)眞鍋献一(日本メノナイトブレザレン教団桑名教会牧師)・・・「二者関係」と「三者関係」の視点からの考察
 契約(律法)に違反する罪(複数)を二者関係、「神に敵対する諸力としての罪(単数)」を三者関係と捉え、17節では、前後の文脈から見て、両方のニュアンスが統合されているのではないかと考察しています。
 (3)溝田悟士(広島大学大学院総合科学研究科・研究員)「ゼロ世代とパウロ/パウロと福音書」
 福音の伝承を反映する新約聖書諸文書の「並び順」ではなく「執筆順」に捉え直し、伝承を「世代」順で考察するものです。
 復活を「出来事/事実」と伝承した「ゼロ世代」に対し、15章で展開されている「伝承された復活・福音」はどんな性格で、そこからパウロと福音書を比較した場合パウロは「何世代」に当たるか・・・といった方法論で考察しています。
 ※溝田氏は当日出席の予定なので補足や高橋氏への応答、Q&Aにも適宜対応してもらいます。

以上三つの小論文に対して既に高橋秀典氏が書いた「レスポンス」がありますので、これを参考にしながらディスカッションしたいと思います。


以上簡単ながらご案内いたします。

参加希望の方は小嶋まで(なるべく)10月15日までにご連絡くださると、レジュメの印刷部数等調整できますので、よろしくご協力のほどお願いします。メールアドレスは右コラム(→)下の方

第6回N.T.ライト・セミナー
(事務局) 小嶋崇

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