もう二週間が経ってしまいました。
遅ればせ(?)ながら報告をば・・・。
日時: 2017年10月23日(月)
13時10分~15時50分
場所: お茶の水クリスチャンセンター・416号室
超大型台風21号が直撃か。
場合によっては予告したツイキャスも、レジュメもなしで開催か。
はたまた中止か。
そんなことを前日まで案じながら朝起きてみるとどうやら台風の方はなんとかなりそう。
しかし交通への影響が残っているかも知れない・・・、と回復した天気の中お茶の水にやってきました。
早い話、今回は開催したところで「半ば仕事は終わった」ような感じでした。
今回は出席者が少なく、予定開始時間にはほぼ集っていました。
開会に当たってあめんどうの小渕さんの挨拶と開会祈祷。(小渕さんは受付・会計・販売担当委員をやってくれています。)
邦訳中のライト『Surprised By Hope』の一パッセージを紹介し、
プロテスタント教会にかかげられる十字架にイエスの姿がないのは、復活してそこにいなくなったからだと聞いたことがある。それでも多くの人は、教会にかかげられている十字架を見るたびに、復活よりイエスの死による贖罪をイメージするのではないか。
と、問題提起をしてくれました。
第一部 15章17節「罪の中にいる」をめぐって
発表・岩本遠億 「第一コリント15章17節の条件文解釈の可能性」
岩本氏の発表は(すでに集った応募論文のような)「アカデミックな視点からの分析ではなく、聖書翻訳文を複数比較検討するようなものもあったらいいな」、という要望に応え用意されたものでした。
岩本氏にはパネリストを頼んでいたのですが、発表原稿まで用意してくださり今回のセミナーが充実したものになりました。
岩本論文は「条件文」の「前提」と「帰結」の論理的関係がどう日本語翻訳聖書で反映されているかを検討しながら自らの「翻訳案」を提示するものでした。
その際課題とされた第一コリント15章17節だけでなく、パウロ書簡の(主に)復活を扱っている箇所や他にも数箇所例証して、「条件文の論理的関係」のバリエーションがどれだけあるか比較参照するものでした。
岩本氏の発表後の「(今もなお)罪の中にいる」をめぐるパネル・ディスカッションは、小山氏と眞鍋氏の応募論文、そして高橋氏が用意した「レスポンス」を交えたものでした。
説明を簡単にするため、「罪の中にいる」の意味の取り方を基本的に次の二つに整理しておきます。
(A)「もし復活しなかったなら・・・まだ罪の中にいることになってしまう」
この解釈は、キリストの復活を反事実として前提し、その論理的帰結が「罪の中にいる」ことになる、という一般的議論になります。
(B)「復活を否定するから・・・あなた方は罪の中にいる」
この解釈は、コリント信者の一部がキリストの復活を事実否定(するような言動を)しているから、「彼ら自身が罪の中にいる」ような状態を生じさせているのだ、というコリントの信者の実際に即した議論になります。
(A)タイプの解釈を取っているのは、
(岩本氏が紹介してくれた日本語訳聖書では)
・口語訳
・新共同訳
・岩波訳
・フランシスコ会訳、
それにライトの近著『革命が始まった日』を採用した小山論文、と言うことになります。
(B)タイプの解釈を取っているのは、
・(17節の論理的前提→帰結が不明瞭だが)新改訳
そして岩本氏、さらに眞鍋論文もこちらの方に入れるのが妥当かと思います。
パネルディスカッションは、この(A)タイプと(B)タイプのどちらの解釈がより妥当だろうか・・・を考えるようなものになりました。
ディスカッションしていて気が付いたのですが、ギリシャ語原文では「罪」には所有格「あなたがたの」があり、殆どの英訳聖書では「in your sins」と訳しているのに、紹介された日本語訳聖書のうち、口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳では所有格部分が省略と言うか訳されていないのです。(なぜなのか話題にして見ましたが「不思議だ」の感想しかありませんでした。今後検討が必要かと思いました。)
第二部 復活の「福音」の伝承をめぐって
第一部が「罪の中にいる」という1節の中の1フレーズをめぐるミクロな解釈論でしたが、第二部は15章冒頭にある「受け・伝えた」という福音全体の伝承をめぐるかなりマクロな考察でした。
第一部より時間が短く深い議論は出来ませんでしたが、コリント信者たちに福音がどのくらい正確に伝承されたのか(あるいは内容が変容したのか)を考察するものでした。
残された新約聖書文書間の関係を問題にした溝田論文や、コリント教会での問題のように「異文化間」で伝承された内容が変わる問題(川向論文)等、背景的な問題を考える機会でした。
福音派の背景の方々には聖書を読み、解釈するとき「文書資料説」のような思考は余りしていないと思われるので、福音を受けた「ゼロ世代」というネーミングにはっと感じられた方もおられたようです。
さて、ここからは雑多な感想になりますが、小山論文が採用したライトの「継続する捕囚」について、「(今回は)掴んじゃったかもしれない。」と後日感想を述べられた方がいました。
この(解釈の枠組)ポイントは、ライトの著作でかなり出てくるので、一度「掴む」といろいろ応用の幅が広がるのではないかと思います。(もちろんライトの説が正しいと思わない研究者も多くおり論争点であることに変わりありませんが。)
福音派の「聖書主義(ビブリシズム)」との関連で
最後に今回のセミナーを準備し、そして終わって考えたことを述べてみます。
福音派と云うと極端な場合「聖書だけあればいい。信条も教理もいらない。」のような立場があります。
どちらかというと「反・権威、反・専門家(アカデミック)」な傾向で、最近話題になった「反知性主義」とも繋がるものです。
今回岩本氏の発表は「翻訳聖書の本文(だけ)を相手にしてどこまで『意図された意味』に迫れるか」という狙いに応えてくれるものでした。(言語学という別な専門からの知見を加えたものであることはそうなのですが。)
一方小山論文や眞鍋論文は「最近・最新のパウロ研究」の成果を組み入れようとした点で、宗教改革者たちが目指した「リタラルな解釈」、つまり聖書著者の意図した意味という広い意味で歴史的な人文学的研究に即したものでした。
このように福音派の方々自身、そしてそうじゃない人たちも、「リタラルな聖書解釈」については異なる(かなり幅のある)考え方があると思います。
そういう現状を考えると、今回のセミナーは福音派の教会に集う信者の方々の聖書理解がどのような性格の「聖書のリタラルな解釈」の上に立つのかを考える(ごく小さな)一つのトライアルというか実験の機会を提供できたのではないかと思います。
以上、内容的には全然詳しくないレポートでした。
詳しくは、後日あめんどうから発売予定の「レジュメ」(当日のツイキャス音声リンク付き予定)の案内をお待ちください。
※今回は「DVD販売」はありません。
最後に、
今回のセミナーに参加なさった方、発表者・パネリスト、裏方さん、
ご協力ありがとうございました。
N.T.ライト・セミナー運営委員一同